過去の文章⑤’

何やねんこの文章(現在の自分の感想)。

 

タイトル へへっへ。

Love&Peace.
どうも〇〇(当時のhn)です。

 

一回たまたま一緒に飲んで、電話番号を聞きそびれていたので人伝に聞こうとして一応メールで許可を取ってみたら断られて、それが2回程あって、まあ昨日、また一緒に飲んだわけだけども。

 

「何で電話番号教えんのダメなの?」って聞いたらさ、「ん?あぁ?しつこそうだから」だって。

 

マジ勘弁してくれって・・・。
オジサン久しぶりに切れそうになっちゃったよ・・・。

 

その後もなんていうか、すごい態度で、王様か何かかっていう、しかもトゲのある、人を舐めた言葉しか返ってこないし。

すげえよある意味、怖いもんなしで。
人を傷つけて、へいちゃらで居られるんだから。

 

お前だって同じじゃねえかって言われるかも知れんけど、それは違うね。ある意味ギリギリのところをついて、振りかぶって目の前で止めている。何故そんなことをするのかって言われたら、説明するのは難しいけれども、すんでの所のヒヤヒヤするような攻防は、セーフティとか、安穏とかそういう部分を却って際立たせるもんで、ほっとしたとか、笑いもそうだけど、それによって随分とレンジが拡がるから。それと、単純に性格とか、言ったらアレだけど茶目っ気や照れや、いろんなものもあって、そうしている。

 

もちろん「危ないじゃないか!」と顔真っ赤にして怒る奴もいるだろうけど、大丈夫だよ、当てねえって。何で当てないかって言われたら、そりゃ決まってるでしょ、「痛いから」だよ。だから逆に「当てられたらどれだけ痛いか」を知っていないと、こういう真似はできない訳。

 

ただ、こちらが竹刀を振りかぶって寸止めすると、お返しとばかりに果物ナイフでプスプスと刺されるのは痛かった。計算していなかった。

ご本人、やり返してる積りでも、それは違うから。
似て非なるものだから。

 

”そうしている”人を悪く言うわけではないが、両手を広げて害意の無いことを示し、そうしてそっと花束を渡すというようなコミュニケーションの方法と、自分のそれとは全く見え方も受け取られ方も違う。だけれど花束と竹刀の寸止めと、その本質を考えたら何が違うというのか。そして、花束を渡すなんて行為は、自分にはできない、今は。

 

理解されない苦しみなんて、自分は言わない。
言わない代わりに、理解しないやつはアホだと言う。

 

ともあれ、結構勉強にはなった。
強がりじゃなく改めて、人は人を舐めてはいかんとやられてみて思った。

 

ゆで卵食った後の屁みたいなあんな奴でも、自分に学ばせることができるんだから大したモンだ。

ただ、同じ手は食わんよ。そりゃ、improveぐらいするさって。

 

場合によっちゃ、寸止めせずに、当てる、しかも持ってるのは竹刀とは限らんよ。折れ曲がった釘が無数についている角材かも知れない(笑)。