あの景色の見え方。

昔取った杵柄、でもないけれども、インターネット黎明期からテレホーダイなどでネットに塗れてきた恩恵か、専門的なものでもない限り、パソコンとかオフィスソフトとかの知識で困ったことがない。

 

だけれども、snsということになると、当時の自分のメンタル状態と相俟って、面白いぐらいにセルフでキリモミ状態になって辞めたこともあり、シャレにならないぐらいのブランクがあり、そういうことでは人後に”落ちる”、どころか、かつての変な癖が残っており、尚性質が悪いようなところがある。

 

そうした”疎い”、ロートルが助かって?いるのがあるイシューでのグループメンバーのブログ。

 

もちろん、やべえやばくないの強弱はあれど、すごく悩んで苦しんでいる方が多くいるんだと思って、かつて社会に接点すら持てなかった(恐怖で)自分からすると、ほんとに郷愁というか、懐かしさを覚える。

 

ただこれだけは誤解して欲しくないのが、”現在は違う”とばかりに上から目線、高所から興味本位に閲覧をしているのではない。それで言ったら、皆さんにはご存じの事かと思うが、そうしたことには完治という言葉は使われず寛解という言葉が使われがちなものの、その意味で言えば、自分もまだ、何か完全に生まれ変わった自分とか、完全に一時的に調子が悪かったあの時期、とかではなく、緩やかにそうした気質は持っているものと思うし、だからこと郷愁なり懐かしさを感じるんだとも思う。そして自分の場合、そして多くの場合、これは一生続くものなんだとも思うね。

 

ともあれ、そのブログメンバーの皆さんや、他、同様な苦しみ悩みを抱えている皆さんには共感が得られるものと思うが、メンタルが底を打ったぐらいに落ちた状態から見える景色(これは抽象的な表現でなく、普通の、そこらの公園とか木とか川とか)は、全然違うからね。見え方が全然違って、驚愕といって差し支えないぐらいビックリしたのを覚えている。

 

ただ厄介は、ほんの一つ厄介は、そんな状態、そんな状態で見る景色はできれば二度と味わいたくない、見たくないと思いながらも、ほんの、ほんのちょっと、パーセンテージにして数%あるかわからないレベルで、”ちょっと落ち着く”ことでもあると思ってる。そんな、”ちょっと落ち着く”という状態があったとして、さてそこに現実世界のどうにもならない人間関係や汲々とした経済状況等々を”総合的に”考えた、見つめたとしたらどうなるか・・・。結構な確率で(持って)いかれるだろうと個人的には思う。

 

もし、何が何でも生きる、というのなら、あの変な”静謐さ””落ち着く感覚”は本当にあぶねえ。そして、俺は生きてるからこのブログを書けている訳だけれども、正解が何が何でも生きる、生きてて良かった、なのかは断言できない。もしか、本当にもしかすると、そうではない方が正解、正解不正解ではないというのなら、快不快と言っても良いが、快であるのかもしれない。

 

自分は、本当の大元は、簡単なことをやたら複雑にするような方向性は好まないが、こうした領域で言うと、どちらが正しいのかわからなくなるから不思議だ。

結局、どちらも正しいのだろう、とバカなりにそう理解している次第。